生成AIの性能が上がるたびに、
「すごい」
と思う。
文章は自然になった。
資料もきれいにつくれる。
画像も、コードも、以前とは比べものにならない。
少し前なら専門的な技術が必要だったものが、短い時間でかなりの品質まで仕上がる。
AIの「出力品質」は、ものすごい勢いで上がっている。
でも僕は、AIを使うとき、
なぜかもうひとつの品質を分けて考える癖がある。
「問題解決品質」だ。
たとえば、
「採用できないので、求人広告を改善したい」
という相談があったとする。
AIに求人原稿を渡せば、かなり上手に改善してくれる。
言葉を整え、魅力を整理し、読みやすい求人原稿をつくってくれる。
出力品質は高い。
でも、
採用できない原因が求人原稿ではなかったらどうだろう。
給与なのかもしれない。
仕事内容なのかもしれない。
そもそも、本当に人を増やす必要があるのかもしれない。
その状態で求人原稿だけを完璧にしても、
「いいものができた」ことと、
「問題が解決した」ことは同じではない。
これは少し怖い。
AIの出力が拙ければ、
「これでいいのかな」
と疑うことができる。
でも、AIがものすごくきれいな答えを返してくると、
その答えが正しいような気がしてしまう。
文章として正しい。
資料としても美しい。
理屈も通っている。
だから、その一つ前にある、
「そもそも、この問題を解けばいいんだっけ?」
という問いが見えにくくなる。
AIは、間違った方向へ進むコストまで劇的に下げる。
以前なら時間もお金もかかっていたから、始める前に考えていたことを、
今はとりあえずつくれてしまう。
とりあえず書ける。
とりあえず分析できる。
とりあえず形にできる。
そして、かなりいいものができてしまう。
だからこれから、
AIがつくったものを見る力だけでは足りなくなる気がしている。
その出力がどれだけ優れているかではなく、
その出力は、何の問題を解こうとしているのか。
そして、
その問題は、本当に解くべき問題なのか。
AIの出力品質が上がれば上がるほど、
その手前を考えることの価値は、
むしろ大きくなっていくのかもしれない。
