生成AIを使うようになって、
考えなくていいことが増えた。
文章のたたき台をつくる。
長い資料を要約する。
情報を整理する。
計算する。
コードを書く。
少し前なら、自分の頭と時間を使っていたことを、AIに任せられるようになった。
これだけを見ると、
AIは「人間が考えなくて済むようにする道具」に見える。
実際、そういう側面もあると思う。
でも僕は、少し違う捉え方をしている。
考えなくてよくなったのではなく、考える場所を選べるようになった。
たとえば、文章を書くとき。
以前なら、
言葉をどう並べるか。
文章をどう整えるか。
誤字はないか。
もっと分かりやすくできないか。
そんなところにも、かなり頭を使っていた。
今は、その一部をAIに任せられる。
すると僕は、
そもそも何を伝えたいのか。
なぜこれを伝えるのか。
本当にこの言葉でいいのか。
その前提は正しいのか。
そちらに時間を使える。
仕事でも同じだ。
資料をつくることに2時間かかっていたなら、
AIを使って30分にすることができる。
そこで浮いた1時間30分を、
別の資料をつくることに使うこともできる。
でも、
「そもそも、この資料は必要なんだろうか」
と考える時間に使うこともできる。
AIによって効率化された時間を、
さらに多くの仕事で埋めるのか。
それとも、
これまで時間がなくて考えられなかったことに使うのか。
そこには、かなり大きな違いがある気がする。
AIがどこまで進化しても、
人間が何も考えなくてよくなるわけではない。
むしろ、
何をAIに任せて、
何を自分で考えるのか。
その境界を自分で決める必要が出てくる。
これまでは、
目の前にある仕事について考えるしかなかった。
これからは、
どこに自分の思考を使うのかまで、自分で選べる。
だとしたら、
AIによって生まれた余白を何に使うかは、
AIの性能よりも、
ずっと人間側の問題なのかもしれない。
